冷麺の味つづき話

 今年(2005年)の7月21日、朝日新聞朝刊・神奈川版に「在日集落 歴史に幕」というかなりスペースを割いたコラムが掲載されました。この記事でわたしが反応したのは本見出しではなく中見出しの方で、ご覧の通り「川崎の河川敷 戦後から生活の場に」という一行に眼が釘付けになりました。
 もしかして・・・あそこのことかな??? 
 読者の方の中にはご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、わたしは数年前、このH.P.に「冷麺の味」と題する在日朝鮮人少年との交流を描いた記事を書いたことがあるのですが、今回の新聞記事は、その題材になった場所のことではあるまいかと思ったのです。しかし、あの記事の記憶から半世紀近くが経過しています。いくらなんでも、あの鶏小屋より粗末だった掘っ建て小屋の集落が今日まであるわけがないなと、脳みそを納得させようとしたのですが、この記事には詳しい場所の地図まで示されていたのです。その地図を一目見た瞬間、あのときのあの場所だ、間違いない、と・・・。
 その後は、記事の一行一行を何度も読み返し、今日現在のあの場所に想いを馳せたのでありました。(コラムの実物はコチラ

 うぅ〜ん、今も残っているのなら早く行ってこの眼で見てみたい、もしかしたら、もしかしたら、あの日の少年やオモニが今でもいるのではないだろうか・・・・?
 もしかしたら、彼らにまた逢えるのではないだろうか・・・・、もし、逢えたのなら何を話そう、何を聞こう・・・、いや、話なんてしなくてもいいんだ、おぉ〜、なんということだ! と、ひとり興奮してしまったのでありました。

 7月も終わろうとしているある日、猛烈な暑さに襲われながらも行きたい・見たい・逢いたいの一心で当地に出掛けてきました。今回はいつも写真に関してのご指導をいただいているebatomさまがこの記事に興味を持ってくださり、ご一緒していただいたのですが、この新聞記事の一件を知って私より先に、現地に行かれて予備知識をたくさん仕入れてきていただいておりました。そのお話によると、とにかく露地が強烈に狭くギッシリ密集しているので、写真撮るなら広角必携だよ、というアドバイスをいただきました。
 わたしは、そのことを考慮しつつ機材の選考を練ったのですが、たまたま、たかさきさまからお借りしている写真機で打って付けのカメラが手元にありました。それがこの「マーシャルプレス」
 実に冷徹なまでにありのままの情景をその場の空気まで包み込んでしっかりと記録してくれるニッコールレンズの付いた信頼度120パーセントのカメラです。これをメイン機に据え、小型35ミリ広角カメラを幾つかサブで携えていくことにしました。


 現地に着いてみると、新聞に書いてあるとおり、当時とは違ってかなり部落が膨張しています。家々の個数からするとざっと10倍以上には膨れていましょうか。通りすがる住人の方々と挨拶を交わしながら、複雑に入り組んだ家々の中心部に向かって進んでいきます。しかし、ここにお住まいのみなさんはどういうことなのでしょう、わたしは風体からして、だらしのない中年男でそれにカメラなど何台もぶら下げた怪しいよそ者なのですが、こちらの皆さんは若い方(といっても30代半ばくらい)もお年寄りもみな、こちらが「こんにちは・・・」と言う前に皆さんの方からニッコリ微笑まれて「こんにちは」と挨拶されてしまうのです。今までに知らない街に入ってこのような接し方をされた経験がありません。どう見ても暮らしぶりが厳しいことは瞬時に分かるのですが、心根は全く逆で心中豊かな方達であることがすぐに理解できます。幾人かの方々に許可をいただき、建物の写真を撮らせていただき、また、昔のことなどいろいろお話しを伺うこともできました。
 例の少年やお母さんのこともお訪ねしたのですが、なにしろ45年も昔のこと、こちらの記憶もかなり危うくなってしまっていて、はっきりとしたことは分からず手掛かりを得ることもできなかったのですが、わたしはそれでも充分に満足がいきましたし、むしろあの幼き日のむず痒い思い出は霧が晴れない方がいいのかもという心境になったりしたのでありました。


以下の写真、マークの付いたものがマーシャルプレスでの写真です
マークはリケノン28mm/2.8をペンタックス・スーパーAに装着して撮ったものです
マークはペンタックスPC35AFで撮ったものです

あの日、少年のあとについて辿った土手下の道です
いまでも、おなじ道の幅、おなじ草の匂い・・・

かなり背の高くなった夏草が無造作に繁茂する中を掻き分けていくと・・・
うん?・・・ここだったかな???

岸辺側から・・・
素人の手作りでしょうか、バラックがびっしり建て込んでありました

このような家並み(?)が続きます

土手側に回って、集落の入り口付近
東京オリンピックの年に電気がひかれたそうです
私が来た当時はランプを灯していましたね



家々で取り囲むようにして集落の中心あたりに猫の額ほどの耕作地があります
そこでは、朝鮮の食卓には必需品のエゴマやトウガラシが・・・

立ち退きのことなど、お話を伺いましたが、
「やはり住み慣れたところを離れるのはね」と寂しそう・・・

かつてはこの集落の中に焼肉店までもがあったようです

集落の下流側にはなんと3棟の集合住宅まで出来ていました

中心に通路があり部屋は左右に分かれて付いています
一部屋の広さは6畳一間ほど・・・

共同の水道場、水道は40年ほど前に引かれたと聞きました
水道が来たことで、急速に人口が増えたとも・・・

小さなバラック仕立ての教会があり牧師さんもいらっしゃいます
きょうは日曜日、住民の方がミサに集まります(これのみマイクロフレックスで)

再開発の足並みは200m先まで近づいています
この集落も年内中には消えて、2年後には奥に見えるようなマンション群に変貌します
戦後を語る昭和の遺構がそこに住む人と共に消滅してゆきます

2005.9.8

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