昭和のおもひで

ボクが産まれた昭和24年は、まだまだ戦後の混乱期。
戦争こそ経験はしていないが、当時、東京の場末の街・矢口渡にはまだ空襲の跡がいたるところに残っていた。
歳と共に記憶がどんどん減衰していく昨今、
今のうちに少年時代の覚えていることを、出来る限り書き留めておくことにしよう。

がま屋さん

↓下の「付録屋さん」のつづきを・・・
また別の日、今度は付録屋さんのとなりに袴姿に手ぬぐいで鉢巻きをした
=がまの油売りのおじさんが店を出していた。
「さぁさぁ、御用とお急ぎでない方は、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい
ここに取りい出したるは正真正銘のやいば、嘘とおもうならやって見せよう。
さぁさぁ近くに寄って見てそうろう。これなる懐紙、1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚
8枚が16枚、16枚が30と2枚、どうだっ、お立ち会い!」と言って紙吹雪を散らす。
「お客さん、まだ信用できないようだなお立ち会い。今度はこの青竹を居合いで切って進ぜよう。
はい、ガキは危ないからこの線まで下がって下がって・・・
さて、どんぐりマナコをよ〜く開いて見逃すなよ・・・えいっ!!!」と一声、スパッと斜め切り!
「驚いたかい奥さん、こんなもんで驚くのはまだ早い、こっからが大事なとこだ、
これを見てもらわなくちゃしょ〜がねぇんだよ。いま、試し切りしたこの刀でこの腕を切ってみせるからな。
あたしも人の子、真っ赤な血が出るよ、まぁ〜だ信用してねぇなぁお客さん。
よぉ〜し、いますぐ切ってみせるからビックリして逃げ出すなよ!」と言って自分の左腕に刀を近づける。
「ダメだよ横向いてちゃ、ちゃぁ〜んと見てろ、さっ行くよ」と言って、刀の刃を腕に当てる。
「いちにぃ〜のぉ、おぉ誰だ動いたのは、気が散るから動かないでくれ」
と、もったいぶってなかなかやらない。
お客がだんだん集まってきて人垣が大きくなったのを見計らって
「いえぃっ!」と一言、ぎゃっ、本当に切った!
左腕からは血が溢れ出てきて道路にポタポタ落ちている。
「ここで慌てちゃ行けない、お立ち会い。この傷口を手ぬぐいでチョチョイと拭いて
その後にこの軟膏を塗りつける。するとどうだ、ホレこの通り血が止まった。
あとはこの手ぬぐいで結わえておけば、10分ほどでキレイさっぱり傷が消える」と言って、血止めをした。
「さぁ、このスゴい薬が何なのか知りたかろう」と言って、ハマグリの貝殻に入った軟膏を
お客さんの目の前に持っていき、左端から順に最後の人まで見せて回る。
「この軟膏は、じいさんやばあさんが使っているようなヘッポコ薬とはわけが違うよ。
筑波山の麓で捕れた四六のガマだ。四六五六はどこで分かる、前足が四本、後ろ足が六本、
このガマを四面鏡に囲まれたカゴに入れる。するとガマのやつはおのが姿に驚いて
タラァ〜リタラリと脂汗を出す。これを三七二十一日煮詰めてできたのが、このガマの油だ。
そこの坊や、ちょっとコッチに来な。
この子の顔にはホクロがある。みんな見えるかい?この場所についているホクロは
昔から良くないと言われているのは、奥さんもご存知の通りだ。
だが、心配することは無いよ、この軟膏があればこの厄介なホクロもたちどころに取れてしまう。
この脱脂綿に付けてやるから、坊やこれを貼っときな。
ダメだっ、もっと強く押しつけとかなきゃ!おじさんがいいって言うまで押さえてな」



「よぉ〜し、それじゃぁさっきの傷がくっついたかどうかお見せしよう」と言って、
手ぬぐいを解く。すると、傷はほとんど消えていて細い赤い線だけがわずかに残っているだけ!
「ど〜だ、判ったかお立ち会い、きょうは宣伝を兼ねてやっているからいつもは200円の所
本日は特別!半額の100円にまけとくから持っていきな」
すると、少し後ろで見ていた若い大人の人が「二つくれ!」と、お金を出した。
続いて、前にいたおばさんやおじさんたちが釣られて次々に100円札を出していく。
「さぁさぁ、無くならないうちに持っていきな」と袴のおじさんが煽る。
25、6人が買ったろうか、一段落するとおじさんはさっきの子供を引っ張り出して
「さぁ、またまたお立ち会い、よ〜く見てくれよ、この子のホクロがどうなったか。
いま買ってくれたお客さんが、もしかしたらダマされたんじゃないかなんて
疑っているとしゃくにさわるからねぇ、さぁ〜て・・・」
と言って、子供の顔に貼付けた脱脂綿を剥がした。すると「どうだ、見えるか」と言いながら
軟膏の付いた脱脂綿の真ん中に小さな黒いホクロが付いているのをみんなに見せた。
これでまた、100円札を握った腕がボクの頭の上に何本も出てきた!
ボクの顔には右目の横に気になるホクロがあったので、このガマの油がホントに
欲しいと思ったのだが、握りしめていた手の中には10円玉が一個あるだけだった。


2013.11.3


付録屋さん

矢口渡というところは、古くから多摩川の「渡し」があったところで
大昔より連綿として土曜日の夜は商店街のメインストリートに夜店がでる。
毎週の土曜なので、ねんがらお祭りをやっている感じだ。
夕方になると道の両側にどんどん夜店の屋台が建ち始め、
駅前から多摩川に向かっていく方向に500Mくらい、
店数にして100軒くらいの夜店が並ぶのだ。
中でも、ボクのお目当ては少年雑誌の付録だけを売っているお店。
家計が厳しかったせいもあって、「ぼくら」とか「少年倶楽部」といった少年雑誌を
買ってもらえる環境ではなかったので、ことさら少年雑誌には興味があった。
本誌の方はいつも八百屋のヨッチャンちでみせてもらていたが
付録はヨッチャンが独り占め、ボール紙で作る消防車なんて欲しくて欲しくてたまらなかった。
その欲しかった付録が5円とか10円とかデラックスなやつでも20円くらいで売っているお店が出る。
ボクのお小遣いはたいていこの付録屋さんで消えていった。
あるとき、その付録屋さんのとなりで新聞紙を何枚も広げて
焼け跡の水をかぶった炭の山を積み上げているおじさんが来ていた。
その炭の山の中にピカピカ光るものがいっぱい混ざっている。
おじさんはその中から指で一つずつ探り出して傍らに置いたバケツの水で洗って
手ぬぐいで拭いて取り出したものは万年筆なのか?!
しかし、おじさんは「買ってください」とか、「この万年筆は一流メーカーパイロットのもの」とかの
売りモンクはぜんぜん言わない。ただ聞こえないほどの小声でぶつぶつ呟いているだけ・・・
しばらくすると、通りがかったおじさんがしゃがみ込みながら
「なに言ってんだかわかんねぇ〜よ、えっ何、うんうん、会社が火事になって
丸焼けでやっとこれだけ持ち出してきたんだって。そ〜か〜、それでなんとか
これを安くても構わないから今夜のメシ代くれぇ〜にはしたいってかっ。
ふ〜ん、かわいそうになぁ〜・・・ところでこれは幾らくらいするもんなんだ?
1000円かぁ〜、それを200円でいいっていうのか、安いなぁ〜・・・そんじゃぁ1本もらっていくか」
といって、お金を寄り集まってきた人達に見せながら払った。
それに釣られるように他の大人たちも次々とお金を出し始めた。
すると、さっきのおじさんがまた来て「オレ、もう1本買っとくわ」と言って
またお金を出した。そうしたら、いままで考えていたおばさんまで
「私もちょうだい!」とがま口を開けた。
集まっていたお客が帰ってもボクが感心して見ていたら「ガキはジャマだから、アッチ行け!」って、追い払われた。


2013.10.19


とっても怖い

国鉄蒲田駅には北側の踏切手前には東口と西口とを行き来が出来るいつも暗い地下道がある。
その地下道には、たいてい傷痍軍人が戦闘帽を被り、白い病院着のような服装をしてお金を請いている。
いちばんよく見掛ける人は、丸い黒めがねを掛けていて、左の脚が腿から下が無くなっていて義足で立っている。
ボクはそのスネから覗いた義足の形が怖くて、いつも反対側を見ながら歩いて行く。
別の日にもまた傷痍軍人が居て、この人は右腕が肩から無くなっていて義手を着けているが
義手の先端は鋭く尖ったカギになっていて、そこにヒモを掛けた募金箱を下げていてこっちはもっと怖かった。
この人の場合には他の場所も脚も負傷しているのか、むしろを敷いてひざまずいた形で金請いをしている。
そして、隣りには同じく白い病院着をまとった人がアコーデオンで寂しい軍歌のような曲を弾いている。
おかあさんと一緒の時は早足で通り抜けてくれるのだけど、おとうさんと通ると必ず立ち止まって
十円札を1枚ポケットから出して「少ないけど・・・」と言いながら募金箱に入れていた。
ボクはもう5才だから戦争が終わって9年も経っているのに、あの人たちも大変だなぁ〜と思いつつも
この地下道を通るのは、やっぱり怖くて嫌だ。



2013.10.10


引っ越したよ

ボクが小学校に上がる6才(昭和30年)になったとき、
おとうさんはようやく六畳一間のホンモノの長屋に引越をしてくれた。
そこは今住んでいる蒲田から目蒲線で一つめの駅の「矢口渡(やぐちのわたし)」というところ。
これまで暮らしていたのは、ボール紙工場の倉庫の片隅で、いわゆる人が住まうような場所ではなかった。
入口からいちばん奥の左隅にベニア板で四角くしきりを作り、
リンゴ箱をたくさん並べた上に畳を六枚敷いただけの粗末なものだった。
右隅にも同じ造りの部屋があって、そこにはうちより子供が一人多い5人家族の佐藤さん一家が暮らしていた。
倉庫なので壁には窓が無く、天井に採光用の小さな明かり取りがひとつあるだけだった。
だから、昼間でもとっても部屋の中は暗かった。
この2家族を住まわせて、倉庫の泥棒避けにしようとボール紙工場の社長さんは考えたんだ。
佐藤さんのおとうさんは、川崎にあったブリジストンの工員さんだった。
当時、その会社が発明したスポンジというもので出来た敷き布団が部屋の隅に三枚もあって、
その上で遊ぶのは雲の上で遊ぶようで、とても気持よかった。
ボクら5人は、ほとんど同じような歳の子ども。
うちも佐藤さんちもお金が無かったのでみんな幼稚園には行けなかったが
毎日、5人でとっても仲良くあそんでいた。
だから、引っ越す日は別れるのがいやで妹と一緒に泣いてしまった。
やがて、「池上運送」のダイハツ三輪がやってきて、タンスやちゃぶ台、服の詰まった桑折、
物干竿までを載せて、隣町に向け出発した。

矢口渡の長屋に引越をして、最初の夜に夕立のような大雨が降った。
いつものようにバケツや茶碗をいっぱい出してきて、新聞紙を敷き詰め雨漏りのしずくを受ける準備をしたが
この古びた「新居」には不思議なことに一滴の雨漏りもしなかった。
そのことがボクと妹はとってもウレシくて、一夜にしてこの古い新居が気に入ってしまった。
今にしておもうと、初めて学校に上がる子供のためにちゃんとした借家に住んで
ボクらに肩身の狭い思いをさせたくなかったんだろうね、おとうさんは・・・



昭和30年頃の目蒲線蒲田駅プラットホームから見た軌道敷
進入してきたのは隣りのホームに到着する池上線。
この左側の目蒲線のレールが遠くで左にくの字に曲がった先の線路際に
ボクらが暮らしていたボール紙工場の倉庫が建っていた。

2013.9.27


おわい屋さん

月に一度、大八車に樽をたくさん並べて「おわい屋」さんが来る。
あのくさい、くさい、田舎の香水。
その臭いが商店街から長屋の路地まで、そこらじゅう臭っている。
というよりも、町中の空気が黄色くあの「おわい色」になった感じだ。
各家のぼっとん便所の汲取口から長い柄のついたヒシャクを突っ込んで
掻き回してから糞尿を汲み上げるので、そばに居たら息が出来ないほどに臭いよ。
あれ、なんで掻き回してから始めるんだろっ?
そぉ〜っとやれば臭いだってそんな暴れ出したりしなかったろうに・・・


なので、オジさんが作業中のそばを通るときは、この黄色い色がついているような
強力な毒ガスを鼻の先っぽにも入れないよう、息を止めながら一目散に駆け抜ける。
汲み取りが終ると、あたりには黄色い汁があちこち垂れていて
そこにウジ虫やらちぎれたウドンのように見える回虫などが蠢いている。
オジさんはそこに白い粉(消毒剤?殺虫剤??)をサッさサッさと撒いてから引き上げる。
肥え樽を2本、天秤棒の前後にぶらさげて「えっさ、ほいっさ」と言いながら
樽をゆらゆらゆさゆさ、中身をピッチャピッチャ揺らしながら
通りに止めた大八車まで担いでゆく。
途中で転んだりしたことは無いのだろうか、転んだりしたら大変だぁ〜・・・


2013.9.12


蒲田の駄菓子屋さん

蒲田駅の西口を出て右側を見るとヤミ市に大きな天井を被せたような市場があって
その中の一番奥に駄菓子屋がある。
たまにお金が入るとお母さんはそこまで買物にいく。
買物の最後にまだ少しお金が余っている時は、ボクと妹にそこで何か1コだけ買ってくれるのだ。
細長いガラスの筒に詰まった赤・緑・黄色のゼリーを思いっきり
つぅ〜ッと吸い込んで食べるやつ。
のしイカの甘く煮たやつ。真っ赤に色付けされたイカの足。
なめると「アタリ」「スカ」と出てくるガムのくじ。
新聞紙の袋に入って中身が見えない野球選手とかお相撲さんのブロマイド。
薄い箱に丸がいっぱい描いてあって、自分の好きなところを指でブスっと開けて
中のオモチャを引っ張り出すやつ・・・どれも、ほとんど5円。
きょうは碍子工場の焼け跡からアカ(銅線)をいっぱい拾ってきて
クズ屋さんに売ったら10円くれたので、お母さんにお金をもらわなくても2個は買えるぞ!


2013.9.1


ヨイトマケの歌

当時は東京とはいえ、まだまだ水道事情は悪くて井戸が普通に使われていた。
もちろん、劇的に貧乏だった我が家も水道は引けずに井戸水をすべての生活に使っていた。
朝、起きるとすぐに大型の井戸ポンプを妹とふたりして漕いで
濾過用の貯水槽を満タンにするのがボクら子供たちの日課だった。
なので、新築のバラックが建つたびに井戸掘り工事は日常の風景としてよく見掛けたものだ。
長い丸太棒を三角に組んで立て、そこに滑車をぶら下げてロープを通して
チカラいっぱいに引くニコヨンのおじさんとおばさんたち。
♪ト〜チャンのためならえんやぁ〜こら〜♪とおばさんが唄うと
今度はオジさんの引き手が♪カァ〜チャンのためだよ えんやこ〜らっ♪と返す。
いわゆるヨイトマケの歌だよね。
この作業をする人をなんでニコヨンって言ってたのか
ニコヨンって全国共通語???
それは当時の日当が240円だったから。
朝から夕方まで1日中汗水流して、貰えたお金がたったの240円。
時給じゃないよ、日給240円だからね!
ちなみに当時は、中華そば25円、ゴールデンバット30円、
豆腐1丁10円、銭湯15円、アイスキャンデ−5円の時代である。
そうして唄いながら鉄管を深く(50m以上もあったか?)刺してから、
それをみんなでまた引っ張り上げて鉄管の中の土を出して、
また鉄管を打ち込んで行く。
そんな人海戦術だったが夕方近くには、もう井戸が出来上がっていた。
機械らしい機械は一切使わず、オール人力、スゴいよね、当時のオジさんオバさんって!
ヨイトマケの唄:菅原やすのり(動画中の写真もお楽しみに)


2013.8.30


道普請

うちの前の道でコールタールをドラム缶でぐらぐら煮ている。
それをバケツに入れて、おばさんがヒシャクで砂利の上に撒いて行く。
今度はそのうしろからおじさんがその上に小砂利を撒いて行く。
そしてその上を重そうなローラー車がゆっくりゆっくり均して行く。
いままで、雨が降るとぬかぬかぐちゃぐちゃになっていた凸凹道路がまるで
羽田の滑走路のようになっていくのが素晴らしく、
作業が終る夕方まで道の端にしゃがんで眺めていたものだ。
あのコールタールの強い臭いは強烈で、いまでも鼻の奥にその記憶ははっきり残っている。


2013.8.29

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