(最終回・Rikenon 28mm編)

前回Vol.2では司馬遼太郎著「街道をゆく37・本郷界隈」の「真砂町」の章までをご案内しましたが、今回はVol.2に続き、「給費生」の項から始めます。
今回、一緒に連れて歩いたカメラは「Ricoh XR-7MII」にリケノン28/2.8レンズを着けて臨みました。
今度の場合、ひと一人、通るのがやっとというような、露地を巡ることになりますので、35ミリのコンパクトカメラを用意して出掛けたのですが、それでも引ききれずボツに。再度、一眼レフに広角レンズを着けてのチャレンジということになってしまったのです。

3ヶ月に渡って、ご案内いたしましたこの「街道をゆく37・本郷界隈」シリーズも今回をもって最終回といたします。いままで、ご覧頂き、多くのご支援を頂いたことを感謝いたします、ありがとう御座いました。

2004.5.18

給費生
 私は、子規がすきである。子規のことを考えていると、そこにいるような気がしてくる。
 子規は、慶応三年(1867)という、徳川幕藩体制の終末のとしに伊予松山藩士の子としてうまれた。明治三十五年(1902)、三十五歳、東京の根岸の病宅で死ぬ。
 妻もめとらず、三十歳前後から病床にありつつ、日本文学史上、きわだったことをなしとげた。俳句・短歌を美学的に革新し、また明治の散文に写生能力を加えたことである。そのための活動期がわずか五,六年にすぎなかったことをおもうと、聖霊のようなはたらきだったというほかない。
 私は、このひとについて、『坂の上の雲』と『ひとびとの跫音』を書いた。
 かれが学生時代の数年間いた真砂町十八番地(いまの本郷四丁目)の崖上の家のあたりを、こんど再訪してみた。
 はじめて訪ねた二十数年前とは様子が変わっていて、化粧レンガのあかるい、ドイツ菓子のような建物がたっていた。「日立」の研修所ビルだった。
 相変わらずまわりがしずかで、その点では子規のころとさほどにかわっていなさそうであった。


(中略)また逍遙の塾も、主として第一高等学校への受験生、もしくは大学生はあずかる一種の寄宿学校でもあった。
 常盤会も、そうである。
(中略)寄宿舎から「真砂集」という機関誌が出ていた。その第一編に書いた子規のみじかい文章によって、彼の部屋が、谷ごしに菊坂町あたりの屋根や木々を見はるかす第二号室だったことがわかる。
 常盤会寄宿舎をのせている崖は、炭団坂によってせまい谷にむかって落ちこんでいる。
 その谷底の家なみを右にまがって菊坂町に出、さらに右へゆけば本郷通りに出る。子規はそういう順路で学校に通ったはずである。


崖上の露地。
左側は崖、右側が日立の研修所ビルが建っています。
10年くらい前までは、ここに寄宿舎が建っていました。


崖上の露地を突き当たると、金田一春彦氏の家へ出ます。


子規が窓越しに見ていたであろう菊坂の風景

一葉
 本郷真砂町(現・本郷一〜二,四丁目)は台地である。
 ひとすじの細谷をへだてて、むこうにも台地が盛りあがっている。若いころの正岡子規が、常盤会寄宿舎のガラス窓から、むこうの台地をながめて、

   ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に鳴くほととぎす

 と、詠んだ。江戸期や明治の本郷周辺では、よくほととぎすが啼いたらしい。
 炭団坂を降りてみた。
 急な石段で、江戸のむかし炭団を商う人がいたからだとも言い、またあまりに急で、ときに人が炭団のようにころがり落ちるからだともいう。
 谷の家並みは、古風にしずまっている。黒ずんだ板張りの家などが残り、明治にまぎれこんだようでもある。
 露地が一筋あり、入ってみると、両側の家々は軒下に鉢植えが多く置かれ、両側の軒先がせまっていた。
 奥に石畳があり、共同井戸があった。緑のペンキで塗られたポンプが、まだ使われているかのようである。
 意外にも、
「樋口一葉の菊坂旧居跡」
 とあった。
 私がこのシリーズで、本郷の原型を書いている。
 べつに文学散歩をしているのではない。しかし露地奥から一葉女史に出て来られては、手にあまる思いがする。


現在は綺麗に整備された「炭団坂」


樋口一葉の菊坂旧居跡に至る露地、この石畳は昔のままだ。


今は鋳鉄製のポンプが付いています。もちろん、現役で近隣の人々の用を足しています。

 樋口一葉は(1872〜96)は明治五年のうまれで、子規より五つ若い。
 東京に生まれた。住まいを転々とし、明治二十三年(1890)九月、この菊坂台の下の露地奥に移ってきた。
 帰宅して調べると、掲示の文章にまちがいはなかった。一葉は三年ほどここにいた。
 当時、母たき、妹くにとの三人ぐらしで、一葉は一家の責任者として和服の洗い張りや針仕事でくらしをたてていた。
 小説をかこうとするのはこの翌年のことである。また翌々年の明治二十五年、雑誌「武蔵野」に小説「闇桜」を発表した。
 この間、子規が崖の上の寄宿舎にいたことになる。
 子規の友人の夏目漱石も一度ならずこの崖の上の寄宿舎に同窓の子規をたずねてきているのだが、崖下に一葉という天才が陋居しているなど、知るよしもなかった。(中略)

 井戸にポンプがついているというのは、なんとなく大正風である。
 一葉に時代は、つるべで汲みあげていたに相違ない。
 一葉は明治二十六年三月、二十二歳のときの日記に、このあたりの地形を一行あまりで表現している。

  我が家は、細道一つ隔て上通りの商人どもが勝手とむかい合居たり

 文中、”上通り”というのは、菊坂台の通りのことである。通りの商家は、お尻を谷に向けているということであろう。
 菊坂台の通りへは、谷からみじかい石段がついている。一葉女史ものぼったかとおもわれる石段を踏みのぼってみた。


炭団坂から一葉の家を繋ぐ道、一葉が「細道一つ隔て」と読んだ道です。
左上に菊坂台の通りが、右の奥に一葉が住んでいました。


一葉が使っていた階段、ここを登って菊坂台の通りへ出ます。


菊坂台の通り、商店の数も随分減ってしまいました。
手前の倉は「伊勢屋質店」、一葉さんが随分通ったそうです。


「伊勢屋質店」・・・現在は営業しておらず、映画のロケなどに利用されています。

永きに渡りご覧頂き、ありがとう御座いました。
もし、本郷を訪れる機会がございましたら幕末から明治にかけての空気を存分にご堪能ください。

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