(Vol.1・Ricoh 35ZF編)

私的なことだが、幕末から明治初年の混乱の世のことを書いていたところ・・・の書き出しで始まる司馬遼太郎さんの「街道をゆく37・本郷界隈」。このシリーズを愛読されている方も多いのではと思いますが、今回は、この本の文章を引用さて頂きながら、司馬さんが辿った本郷を一緒に歩いてみたいと思います。この本が出たのは1996年ですから、かれこれ10年近くも経ってしまいましたが、今の内に辿っておかないと、めまぐるしく変化を続ける東京の一角のことゆえ、同じ風景が見られないかもしれません。このVol.1以降何回かに分けて、カメラのご紹介共々連載してゆく予定でおります。

今回一緒に連れて歩いたカメラは「Ricoh 35ZF」を選びました。ZF・・・まさにゾーンフォーカスでテキパキと実に良く写るカメラです。このカメラの美点はシャッター速度が選べる自動露出機で、パンフーカスにしたければ低速に、メインを浮かび上がらせてバックをボカしたければ高速にと任意に絞りの選択が出来るのです。距離設定も90センチから無限遠まで7段階で細かく設定できるのでピンを外すこともほとんどありません。コニカC35の陰に隠れてあまり目立たないカメラですが、リコーの傑作機の一つではないでしょうか。それにしても「35ZF」とは何の工夫もないネーミング。これじゃぁカメラが可愛そうだよ、リコーさん。
この機体はJFC会友のhottyさんから進呈さたもので、あらためてお礼を述べさて頂きます、ありがとうございました。
それでは、「街道をゆく37・本郷界隈」のページに沿って、歩き始めましょう。


ビュッカーさんのページはこちら
ビュッカーさんのこのカメラでの作品を是非、ご覧ください。
このレンズの本当の実力が分かります。

縄文から弥生へ
 上野の不忍池は、海の切れっぱしだっただろう。しくなくとも、”縄文海進”(6500年から5500年前)のころは、遠浅の入り江だった。
 徳川家康の江戸入りのころ(1590年)でも、下町の大部分が低湿地だった。
 家康から三代ばかりかかった江戸市街地の造成の基本は、低湿地を埋め立てることだった。土は大地から持ってきたり、掘り割りを掘って、残土を積み、地面 を高くした。
 そんな作業がすすむうちに、かねて砂州によってふさがれてできていた池のひとつが残されれた。それが不忍池だったのである。
 その”海”から、本郷台地をながめてみると、堂々たる陸地である。平均標高は25メートルだという。 
 本郷台地は海ぎわだったから、縄文時代のひとびとにとって、一等場所だった。魚や海がとれるからである。文京区教委区委員会編『文京のあゆみ』によると、文京区だけで縄文遺跡が、28カ所も発見されている。


不忍池から・・・桜のつぼみがパンパンに膨らんでいました。

 ”海”から、本郷台という陸地にあがってみた。
 まず無縁坂からあがり、ついでに湯島の切り通しからあがった。また北へまわって弥生坂からものぼってみたりして、本郷台地がずっしりした陸地である感じを体に入れた。むろん、縄文人になったつもりである。


無縁坂(左の塀は旧岩崎邸庭園)・・・至近が上野とは思えぬほど静かなところです。

 「さて、弥生町にゆきましょう」
 と、編集部の村井重俊氏にそういって、不忍池の池畔から、地下鉄の根津駅付近にまわり、弥生坂をのぼった。このあたりは、ひろくは向ヶ岡である。
 江戸時代、このあたりは水戸藩の中屋敷で、町名などはなかった。明治2年(1869年)政府に収用され、それでもなお名無しだった。
 明治5年、町屋ができはじめて町名が必要になった。
 たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸徳川家九台目の斉昭(烈公)の歌碑が建てられており、その歌の詞書に、「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったから、弥生をとった。つまりは、向ヶ岡弥生町になった。
 弥生は、いうまでもなく三月の異称である。奈良朝時台には、すでにあった。
 弥は、「いや」である。弥栄というようにますますという、プラスにむかう形容で、生は「生い」で、生育のこと。草木がますます生いるということである。
 弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。


弥生の町並み

 

水道とクスノキ
 人の暮らしは、水でなりたっている。江戸の水道については以前のべたからあらためて詳説しないが、こんど神田界隈の低地から本郷台にのぼってゆくについて、江戸時代の水道設備の遺構を見たかった。(中略)
 JRお茶の水駅から水道橋方面に歩くと、途中、順天堂大学がある。背後に、本郷台を背負っている。
 大学の建物は道(油坂)によって左右にわかたれており、その油坂を北にのぼると、本郷台のはしの「本郷給水所公苑」にゆきつく。
 公苑というかたちで、東京都が江戸水道の遺構を保存しているのである。
 遺構公苑は給水所の上にある。
 公園には芝生がうえられ、樹木が息づき、遊歩道がめぐらされている。むろん、主役は江戸水道の遺構である。抗の両側が石垣でかためられ、抗の上には石板のふたが、ずっしりとかぶせられている。
 掲示板によると、石樋構造は、昭和62年(1987)、工事現場で発掘されたそうである。発掘現場は、本郷一丁目先の外堀通 りだったという。
 本郷一丁目といえば、地図によると、そのあたりに水道橋(神田川にかか)があり、る桜蔭学園や宝生能楽堂、工芸高校、昭和第一高等学校、元町小学校などがある。
 忠弥坂というのもある。
 江戸初期の慶安四年(1651)、由井正雪(1605空1)が謀主になって、幕府転覆がくわだてられた。
 正雪の一味に、丸橋忠弥という単純で軽率な槍の使い手がいて、外堀のあたりを歩いているとき、煙管(きせる)でもって堀の深さだか幅だったかをはかる。その場面 が、芝居の名場面として出てくる。
 水道遺構が発見された工事現場は、忠弥坂から遠くない。
 石造であることにおどろかされる。江戸付近には石材のための石がなかったから、どこか遠くから運ばれてきたにちがいない。
 幸い、杉本苑子氏の撰文による碑がある。

  この上水は、井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園のあたりからは地下の石樋によって導  き、途中、掛樋で神田川を渡して、神田・日本橋方面 へ給水していました。
   ・・・四百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ、水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念  として、永く後生に伝えるために移設復原されたものであります。


本郷給水所公苑・・・やんちゃな坊やが池を渡ろうとしています。妹くんは落ちるのではないかと心配そう。


江戸水道の遺構・・・子供の遊び場になっていました、本当は史跡なので立ち入り禁止です。


忠弥坂・・・この坂の勾配は結構あります。

 水道のはなしから、離れる。
 江戸末期の本郷界隈の切絵図をながめていると、本郷一丁目のあたりに壱岐殿坂というのがあって、いまの壱岐坂になっている。
 江戸切絵図のなかの壱岐殿坂からすこし北に入ると、「甲斐庄喜右衛門」という相当な区画(千石、二千石ほど)の旗本屋敷がある。いまの地図でいうと、東洋女子短大から北へ入ってすこしまがったあたりである。いまも都心とはおもえないほどの閑静な通 りである。
 その甲斐庄喜右衛門の屋敷跡に、いまも一樹で森をおもわせるほどのクスノキがそびえている。
 矢田挿雲(1882〜1961)が、大正九年(1920)から数年、「報知新聞」に連載した『江戸から東京へ』にも、このクスノキが出てくる。江戸時代、”本郷のクスノキ"とよばれて有名だったという。(中略)
 このクスノキは、いま区の保護指定になっている。樹齢六百年といわれる。

 
この白いビルが建つ前、(ついこの間のこと)「楠亭」という昔の洋館をそのままの利用した仏蘭西料理店がありました。
その料理店は、この白いビルの中に入って営業しています。

見送り坂
 本郷は、江戸に入るのか、そうではないのか、というのが、以下のはなしである。
 そもそも江戸とは、どこからどこまでをさすのか。
 江戸の境界というのは、ながらく明瞭でなかったらしい。
 江戸市域のことを、「ご府内」といった。主として町奉行所でつかわれていた用語で、町方として管轄する地理的範囲をご府内といったのである。
 江戸の場合、本郷の大部分が"ご府内"ではない。だから、本郷の町方で殺人事件がおきたところで、江戸町奉行から与力や同心などが出役することはなかったにちがいない。(中略)
 江戸市域はどこまでか、ということで、江戸後期、幕府の手で、地図に"朱引"がおこなわれた。以後、ご府内のことを、「朱引内」とよんだ。本郷は一部をのぞいては、「朱引外」であった。(中略)
 元来、江戸というのは、そこでうまれただけで自慢になる都市で、この点、ロンドンやワシントンとははなはだしくちがっている。
 だからこそ、境界が気になる。
 享保年間(1716〜36)、口中医師(歯科医)の兼康友悦という人が、本郷三丁目の角に店を開いた。
「乳香散」
 という、粉の歯磨きを売った。大いに繁昌して江戸じゅうに知られるようになった。このことは前記の「御府内備考」にも出てくる。
「本郷へゆくのなら”かねやす”で乳香散を買ってきておくれよ」
 などという会話が、神田でも日本橋ででも交わされたにちがいない。
 本郷三丁目は「かねやす」ができて繁華になったのか、それ以前から江戸市中におとらずにぎわっていたのかよくわからない。ともかくも、
   本郷もかねやすまでは江戸の内
 と川柳で詠まれ、江戸人のあいだで本郷が話柄にのぼるたびに、おそらくこの古川柳が出たのにちがいない。
「かねやす」の店のある本郷三丁目から、ちょっと北へ行って本郷四丁目になると、景観がさびしかったという。(中略)
 いまも、「かねやす」がある。店の前は、本郷三丁目の交差点である。
 入ってみると、歯磨きは見あたらなかったが、娘さん好みの持ち物や愛玩用品、あるいは化粧品のたぐいがならべられている。私は空豆ほどの小さな硯を買った。
 江戸時代の「かねやす」といえば店の前に客がむらがり、店からは口上を唱える者が出て、祭礼のようににぎやかだったというが、いまはお茶室に入ったようにしずかである。
 店を出ると、軒下の化粧タイルに、「かねやす」を説明した文京区教育委員会のプレートがはめこまれていて、みじかい文章ながら、要を得ている。


いまの「かねやす」は女性用品が多いので、ちょっと入りにくいですね。

 江戸時代の刑罰には「所払(ところばらい)」という刑があって、江戸の場合は、「江戸払」といわれた。江戸から追放されるとなると、江戸の境界が問題になる。
 幕府の評定所は、天明八年(1788)の十二月、つぎのように文書化した。以下口語文になおす。
   御府内・御府外の境というのは、従来の公文書をみても、どこを限って内とか外とかというようなものはない。ただ江戸払の場合だけ、その   ことがきまっている。
 江戸は境界があいまいなのだ、という。ただ従前からきまっている追放刑での江戸境界は、品川、板橋、千住、本所深川、四谷大木戸だという。  板橋は本郷よりずっと北西で、したがって追放刑に関するかぎり、本郷は江戸のうちである。
「かねやす」から北は、日光御成街道(いまの東大の西側の本郷通り・国道17号)になる。(中略)
 私は、本郷三丁目の交差点に立っている。
 やがて北にわたり、しばらく歩道を歩いた。路傍に文京区の説明板があった。「別 れの橋・見送り坂と見返り坂」という表題である。由来も書かれている。が、どうも路面 は平坦で、この地点でもって罪人を見送ったとか、罪人が見返ったとかいうのは、江戸の好事家の創作だったのではないかとおもえてくる。
「坂のようには、見えませんな」編集部の村井重俊氏が、ことさらに傾斜を感じようとして、靴底で路面 をすったりした。
 こんにち路面が平坦であるということについても、明治後の道普請によるものだと説明する説があるが、江戸時代の『御府内備考』の巻之三十三の「本郷四丁目」のくだりにすでに、 「坂の様にも相見へ不申候」とある。(中略)
"本郷もかねやすまでは江戸の内”
 という古川柳がよほど喧伝されて・・・以下は想像だが、・・・「かねやす」のむこうあたりでどんと背中の一つも押して追放し、見送ったり見返ったりしたという巷説ができたものかともおもえる。やがて”見送り坂・見返り坂”という尾鰭がついたのだろうか。


見送り坂・・・もう何十年と本郷にいますが、ここが「見送り坂」とはこの本を読むまで知りませんでした。
というより、坂としての認識がありませんでした。確かに多少の傾斜はあるのですが・・・。

藪下の道
 本郷台、湯島台、あるいは小石川台地といっても、それぞれ旧村名を冠しただけの呼称である。
 ひろくいえば武蔵野台地になる。(中略)
 本郷台の東の縁辺の台上を歩いてみた。
 このあたりも、"海"にむかって、急勾配をなしている。
 本郷千駄木の団子坂もそうである。
 その坂の上(本郷駒込千駄木町二十一番地)に、森鴎外(1862〜1922)が住んでいた。
 鴎外は、それより前、本郷駒込千駄木町五十七番地にいたのだが、明治二十五年(1892)に越してきて、終生のすまいになった。
 ときに、満三十歳であった。陸軍軍医学舎(軍医学校)の教官で、すでに『うたかたの記』や『文づかひ』を書き、その創作歴の初動期というべき時期であった。
 家は平屋だったが、両親と祖母をひきとることになって、十二畳の二階を増築した。
 この十二畳の二階から、品川の海がみえたというのである。やがてこの家を「観潮楼」と名づけた。
 鴎外にとって潮というのは、海外という意味もこめていたかもしれない。
 かれは明治十七年以来、四年間ドイツに留学し、この引越しの四年前に帰ってきた。
 その後も、”西洋"をのどもとまで浸すという濃密な日々を送った。いうまでもなくドイツ医学の日本化と、西洋から渡来した美学と文学を自己のものにするための日々である。観潮楼という語感は、単なる漢詩文趣味を越えたものであったろう。
 いま鴎外旧居跡は、文京区の所有になっていて、区立鴎外記念本郷図書館になり、団子坂に面 して門をひらいている。
 坂の上に立つと、鴎外という"巨大な悟性人”のこともさることながら、地質史的な興奮をおぼえざるをえない。
 本郷台が、谷中の方向に向かって溺れこんでゆくような思いがする。
 別名、潮見坂ともいう。
 鴎外は、団子坂のほうを気に入っていたのか、明治四十二年、『団子坂』という題の小品を書いた。


団子坂上(鴎外旧居跡前から)鴎外先生は、ここから東を望むと品川の海が見えたと・・・
私にそれを信じろと言われても、とてもとても無理なことです。

根津権現
 本郷台を団子坂から南に折れて、崖上の道(藪下の道)をたどりと、根津裏門坂に出る。
 坂の中腹に根津権現(根津神社)がある。


国宝の根津権現山門・・・雨でない限り、ここにはいつも子供と若いママとハトがいますね。
ここだけは同じ1時間でも倍の長さに感じます。


 根津は、いい地名である。
 つい愚にもつかぬ地名考をしてみたくなるが、むろん思いつかない。
 根津というのは江戸中期の宝永年間(1704〜11)、幕府の造営によって根津権現ができるまで、文献にはこの地名はなかったそうだ。神社も、千駄 木に鎮坐していたものが、この中腹に移された。移されたとき、根津という固有名詞がついた。(中略)
 正徳四年(1714)の祭礼は、幕府のてこ入れもあり、各町内からさかんに練り物が出て、江戸じゅうの評判になった。根津権現が知られるようになったには、この祭礼によるものとおもわれる。 
 その後、ややさびれた。
 ただ、門前に遊郭があって、繁華をささえた。
"根津門前"ととばれる遊里である。
 江戸時代は幕府官許の遊里は吉原だけで、他は岡場所といわれた。いわば黙認された場所だった。
 なにぶん、江戸は独り者が多かった。商家の奉公人や職方の見習いなど流入人口が多く、いわば女ひでりの街だった。このため遊里がさかえた。


根津神社門前・・・ここが昔、岡場所だったとは・・・。

続編Vol.2はこちらから

2003.3.24

一覧へ戻る