Himatic 7

推理の結果
 もう、40年も昔のことです。
 中学に入って生意気盛りになっていた私は人並みに音楽やファッション、そして女の子など、いわゆる若者文化についても目が向くようになっていました。
 人は、それぞれいろいろな生い立ちを背負って大人になっていくのですが、自分の場合は少しほかの人とは、少し違っているかも知れないと、意識したのがこの頃だったと思います。
 それまでは、何か変だナァ〜とは思ってはいたのですが、子供でしたし、さして気にも止めていなかったのです。
 何が変かと言うと、わが家では父親が大抵、家にいるのです。自宅で商売をしているのなら、それは当然なのですが、別に店を構えて商売をしているわけではありません。
 そして、仕事と称して早朝から出掛けるのは週末から日曜のみ。
 したがって、小学校に通い始めた頃から日曜日に家族で出掛けたという記憶がまったくありません。
 世の中には様々な仕事があるでしょうから、たまたま自分の家ではそうなんだなという軽い理解しかしていなかったのですか、中校に通い始めたある日、下校して夕刻に帰宅すると郵便受けに和紙で出来たような風変わりな手紙が届いていました。
 現在のようにやたらとDMが行き交う時代ではありませんので、元旦の賀状以外は手紙などは珍しいことでした。
 その封筒が気になって手に取ってみると受取人名には父の名が・・・裏を返して差出人を見ると「寺山修司」と記されていたのです。
 寺山修司といえば当時、ラディカルなメッセージで若者に強い影響を与え続けた、カリスマ的存在の詩人であり劇作家であり、いわゆるメチャメチャ有名なカルチャーリーダーでありました。横尾忠則さんや宇野亜吉良さんが手掛けた劇団天井桟敷(寺山さんが主宰していた劇団)の公演ポスターは美術史に残るほどの強烈なインパクトを放ちましたね。
 私の父は、所謂、そちらの方の教養は全くと言っていいほど無縁・無関心の人でしたので、才人・寺山修司氏とは万に一つの接点も見出すことは出来ません。
 まぁ、同姓同名の別人であろうと父にその封書を手渡したのですが、一応、気になってそのことを聞いてみたのです。
 そしたら、父曰く「あぁ〜、何だか物書きの様なことをしているインテリだ、垢抜けないけど面白れぇヤツだ」と。
 げっ、もしかしたら本物の寺山修司氏なのかと、念を押すように「話し方に訛癖がある人?」と聞くと、「そうだが、キミ知ってンのか?」
 ・・・いやいや、この時はビックリしましたね。本物の寺山さんと親交があったとは。
 
 しかし、ビックリしたのはこのことに終わらず更に続いたのです。
 私が興味津々で寺山さんとの縁起を聞き出したのですが、その時に父が一枚の写真を取りだし、「これはオレの仕事中の写真だ。寺山さんはオレの古いお客なんだ」と・・・。
 そこに写っていたのは場外馬券売場の前で、大勢に人に取り囲まれながら競馬の予想を売る父の姿でした。
 ひぇ〜、オヤジの仕事って競馬の予想屋だッたんダァ〜・・・。
 競馬関係の資料や本は父の部屋に山のようにあったことは知っていたのですが、それがオマンマの種とは今日の今日まで知らなかったのです。
 その時、父は自分の生い立ちを初めて私に話してくれたのでした。
 その話によると、自分は生来の遊び人で、戦争から帰還してすぐに母と結婚。そこで少しはマジメになって働かなきゃと、思いついたのが、競馬の予想屋という商売。軍隊に徴用される前に世話になっていた侠客の親分の口利きで店を出したそうです。
 いまでこそ、競馬に限らず競艇からオートレースにいたるまでレース場のそばには何処でも予想屋さんが店を広げていますが、当時はそんなものを商う人は何処にもいなかったそうです。
 普通はマジメになってと、堅気を志し、心を入れ替えた人は会社勤めをしようと思いつくのでしょうが、父の場合、マジメに働くというギリギリの境界線が予想屋だったわけで、昔流に言えば渡世を張って生きる人間、堅気の仕事ではありませんから少年だった私にはそれまで言わなかったのでしょう。
 そのころ、新聞社が本紙とは別にスポーツ紙を出す動きが活発で、各社から競馬欄担当の誘い話が随分あったらしいのですが、生来の一匹狼だった父は、宮仕えを嫌ってそれらの誘いを断っていたようです。

 更に話は続いて、文芸春秋を初めとする数冊の雑誌を持ち出してきて、寺山さんとの縁を語ってくれたのです。
 それによると、寺山さんは無類の競馬好きで父の攻略法を高くかっていたのだそうです。
 それで当時、寺山さんが受け持っていた文春などの対談コーナーに父が駆り出されて対談をしていたんだ、と。自分の父親が文春の対談コーナー・・・、それも憧れの寺山さんと・・・。
 いやいや、息が詰まるほどビックリしちゃいましたね。
 ちなみに「これがオレの仕事中の写真だ」は文春の記事中に掲載されていたもので、寺山さんご本人が撮ったものだと言っていました。

 さて、その写真を撮ったカメラが何だったのか・・・今となってはご両人ともあの世に召されてしまい、聞きただすことは叶いませんが、推理してみようとおもいます。
 まず、思いつくのが「ライカ」。しかし、寺山さんの非常にシャイな性格からして、ちょっと考えにくいです。
 ならば、国産高級一眼レフ。これはもっとちぐはぐな感じがしますね。どう考えても、一眼レフと氏のイメージが一致しません。
 前衛とか先進という意識は、常に根底にあったはずなので、「ミノルタ・ハイマチック7」なんてどうでしょう。これだと時代的にも合致するし、先進性ではトップを走っていたカメラですからね。

 ハイマチック7は、1963年発売で空前の大ヒットになったカメラです。
 当時のライバルはオリンパス・エレクトロセット、ペトリ7S、ヤシカミニスターD、フジカ35EE、コニカS IIと言ったところです。
 この辺りのカメラをご存じの方であれば、完全AEを実現したハイマチック7の先進性が良くご理解いただけると思います。デザインだって、上記のカメラに比べたら相当、前衛していますよね。
 よし、決めた!あの写真を撮った寺山さんのカメラは、タ・ブ・ン「ミノルタ・ハイマチック7」だと。

 このカメラは、レンズシャッター機としてはちょっと大きめのパシャッというシャッター音は実に小気味よく、狙ったシーンを確実に「撮った!」と感じさせてくれ、写欲を充分満足させてくれるカメラですね。
 私の所にあるハイマチック7は友人の父上の持ち物で、この手では良くある押入の中で完全熟成されたジャンクを譲り受けたものです。
 何十年と陽の光を浴びることもなく、程良く湿気の利いたカビ菌君にとっては最良条件の場所で長らく眠っていたらしく全身、表も裏もカビで真っ白!
 もちろんシャッターや絞りの羽は固くへばりつき、ヘリコイドも頑として動かない。
 唯一の救いは電池室で、電池が抜かれていたために緑青の除去とリード線の再配線で露出計は生き返りましたが、ほぼ全分解となってしまったために手の遅い私は、あっちをチョコチョコ、こっちをチョコチョコとやっているうちに、全てを終えるまでに半年近く掛かってしまいました。

 このハイマチック7に搭載されているロッコールPF45mm/1.8は当時のミノルタが持っていた最高級の5群6枚レンズで、SRT101などに使われていた標準レンズと全く同じ構成のレンズです。
 SRT101での麗しく格調の高い描写は経験済みでしたし、数ある名ガウスレンズの中でも一番好きなレンズなのです。
 当然、このハイマチック7でもその流麗さはそのままで、息を呑まずにはおれないトーンの美しさにウットリしてしまいました。
 60年代ネオクラシックカメラとしては、描写・性能(取扱)・デザインとも最高、最上のカメラですね。

ビュッカーさんの報告

2004.6.8


Himatic 7での作例です

以下の写真は、カラーはKONICA Centuria 400を純正現像。
モノクロはFUJI PRESTOをエヌエヌシー社のND-76で標準現像処理。
キヤノン Canoscan D2400Uでネガフィルムを直接スキャニングした画像です。

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