Chinon 35FX III

ウソでしょ, DX対応だなんて

 遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休めるとき、遙か雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。
 満天の星を頂く果てしない光の海を豊かに流れゆく風に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる夜の静寂の、何と饒舌なことでしょうか。
 光と影の境に消えていった遙かな地平線も瞼に浮かんで参ります。
(「ミスター・ロンリー」のBGMがしばし続きます。)
 夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、遠ざかるにつれ次第に星の瞬きと区別がつかなくなります。 
 お送りしております、この音楽が美しく、あなたの夢に、溶け込んでいきますように・・・。

 おぉ〜、なんと素晴らしく印象的なプロローグなのでありましょう・・・。耳から聞いても、こうして文字に書き起こしても絶世の名詩ですネェ〜。
 あなたは、城 達也さんの名調子で始まるこの「ジェット・ストリーム」というFM放送を覚えていらっしゃるっでしょうか。昭和42年、FM放送が開始以来、今日まで営々として続いている名物番組の導入部分ですね。
 城さんは27年間にわたり、この番組のパイロット役を続けてこられましたが、平成6年に降板以来、このプロローグを聞くことが出来なくなりましたが、私にはこの一言一句が深く脳のヒダに刻み込まれております。
 この放送が始まった昭和42年当時、私は学生でありました。その頃は、もっぱらラジオの深夜放送を聴きながら学習することが一つの文化として息づき始めた頃だったのです。

 それぞれの民放ラジオ局が競って、番組を盛り上げていましたので、リスナーの若者も「誰が何と言おうと糸井五郎が最高」とか、「私は土井まさるがいいナァ〜」などと、いろいろ青春していたわけです。
 私も深夜、期末試験の勉強中に、それらの放送を聞いていたのですが、どうも脳味噌が二つのことを同時に処理できる能力を持ち合わせておらず、どうしても聞き込んじゃうンですね。それほど面白かったということもあるのですが、ラジオを聞きながら、物理のルート計算とか英語の助動詞がどうしたこうしたなんて器用なことが出来ないんですよ。
 気が付くといつも、パーソナリティがしゃべっている恋愛相談なんかをジィ〜ッと聞き込んでしまい、「うん、それで」などと相づちを打ちながらどっぷり番組に漬かり込んじゃう。とてもじゃないが、勉学どろこじゃなくなっちゃうわけです。
 この癖(へき)は、40年を経た今も直らず、仕事中にラジオをつけると聞き込んじゃうし、食事中にテレビが付いていると、つい箸を止めてジィ〜ッと見つめていたりしています。なので、私のダイニングテーブルの席は、テレビを背にした位置に決められてしまいました。それでも、背中を強引に曲げて見てはいるのですが、5分もするとイテテテテと・・・。

 ところが、このジェットストリームに限っては、城さんが控えめに、それも品良く曲名をサラッと案内するだけ。取り上げてくれる曲も、イージーリスニングちゅ〜やつですか、心地よく耳に響くものばかりで、これは勉学の邪魔になるどころか、スイスイ能率が上がるような錯覚が出来て、非常に具合が良かったのであります。以来、深夜放送といえば、「ジェットストリーム」が定番になってしまいました。おかげで、友達と交わす深夜放送の話題では、いつも蚊帳の外、糸井五郎さんの「Go・Go・Go」にはついて行けなかったのであります。

 話が、またまたギュゥ〜ンとコースを逸れてきましたので戻します。
 そう、これは「写真機の話をしよう」なので私の単純極まりない脳味噌のことなど、どうでもいいことだったですね。
 今回、お話ししようと思っているカメラは「チノン35FX-III」です。以前にご紹介した「チノン35F」の後継機ですね。
 この35FX-IIIは、1990年代初頭に出てきたカメラなので、昔ながらのC35的デザインの35Fとはまったく異なって、いわゆるストリームデザインに身を包んでいます。アンバー色でオシャレをした電源スイッチとシャッターロックを兼ねたスライドレンズカバーの形が、エアーライン機の客席窓を、また、ファインダーをカバーしている透明な窓がコックピットウィンドウを連想させませんか。
 このカメラをジィ〜ッと見つめていると、そんな想像が湧いて生きて、折しもそれが深夜だったものですから、前段の「ジェットストリーム」などに想いが巡ってしまったわけです。

 それではこの「35FX-III」なるカメラの正体をほんの少し・・・。
 レンズの焦点距離は、相変わらず35ミリ。昔は35ミリといえば立派な広角レンズでしたが、この写角に慣れてしまうと、これほど使い易くて便利な焦点距離は他にないですね、スナップやファミリー写真撮るのならベストな写角です。
 レンズはf4.5。「35F」ではf3.8でしたので、一見するとスペックダウンのように感じますが、このカメラはピント調節が一切出来ない固定焦点式です。ですから、深度を稼ぐ意味でも1段くらいなら暗い方が安心なのです。何だか変な理屈ですが、あまり深く考えずに納得しちゃってください。
 もちろん、レンズ構成は伝統(?)の三枚玉!トリプレットの名機は数あれど、このチノンの三枚は魅惑的ですね。私の経験など極々少ないのですが、今のところ、このチノンの三枚は他社では決して真似の出来ない頭抜けたクセ玉(勿論、最上の褒め言葉として)だと感じています。

 シャッターは電気が必要な機械式?1/125秒の一速のみ。(間違いなく機械式なのですが、どういう訳か電池を入れないと作動しないのです)撮影時は常にf8で固定されています。フラッシュをオンにしたときだけf4.5(開放)に開きます。私がここでアタマを捻っちゃうのが「DX対応」という仕組みです。ボディの右横に、如何にも自慢げに金色のシルク印刷で「DX」マークが付いているんです。(当時はコレが先進性のステータス)フィルム缶に印刷されたコードをカメラが自動で読んで、感度設定するという仕組みですよね。しかし、コイツはいつ如何なる時でも1/125秒&f8(f4.5)な訳です。これでどう対応することが出来るのでありましょう・・・ワッカンネェナァ〜・・・。
 さらに、DX対応機って、フィルムを納めるところにコードを読みとるらしい金属製のボチボチが3つ4つ並んでいるでしょ、しかし、コイツにはそんなボツボツはまったく付いておらず、フィルムの有無を見知する小さなバネ片が一つあるのみです。


 うぅ〜む、怪しい・・・どう考えてもおかしい、「DX対応」だなんてウソでしょ。1/125秒&f8だけで対応出来るわけがないもん。こうゆうのって、不当表示とか不正表示に該当するんじゃないの、当時はそんな法律なかったんですかね。ただ、不思議なのはISO100でも400でもそれなりに写真が撮れちゃう。やっぱり、何か仕掛けがあるのかナァ〜・・・、多分、ネガフィルムのラチに助けられているんだろうと思ってますけど。

 さて、こんなストリームラインに身を包んだヌメッとしたデザインのカメラですが、これが使ってみると実にしっくりと使い易い! 握るところはちゃんと窪んでいるし、裏蓋の指を置くところにはちゃんとギザギザ成形が施してあります。この窪みとギザギザに添って手を置くと自然に正しいホールドが出来るよう設計されているんです。いわゆる、痒いところに手が届いている作りがされているんですね。「35F」のときは右手のホールドは問題なかったのですが、左手がどうも中途半端で、ぎこちない使い方を強いられたのですが、こちらは両手とも完全にしっくりきます、やはり伊達の歳月ではなく見事に進化していました。

 写りに関しては、35Fのようなギラギラした生命感を感じる野性味は影を潜め、良く言えば洗練度が増したよう、悪く言うと大手メーカー製に近づいちゃったかなという感じ。少し優等生になってきちゃったのかしら・・・。しかし、チノンの「キラッ」はまだ色扱いなどに残されていることは確かなようです。この手では良くある遠景のいい加減さもダレることなく35F同様にピッチリ写りますよ、K社のK-miniなんかを使ってヒドイ目に遭い、金輪際、フォーカスフリーなんてイヤだと懲りた人でもコレなら大丈夫。

 もし、あなたがこのチノンカメラに興味を持ち、一台仕入れてみようとお思いになったら、この「35FX-III」までのシリーズがお薦めです。なぜかといえば、この次の「35FX-IV」以降になってしまうと、フラッシュは手動ではなく低輝度自動発光になり、少しでも光が落ちるとやたらに発光し始めちゃうんです。これは使いにくいカメラの極みですからね、ご注意を。

2004.7.7


チノン35FX IIIの作例です

以下のカラー写真は、Kodak Gold200をフジのラボで現像。
モノクロはコニパン400をND-76で標準現像したものを
Nikon COOLSCAN IVでネガフィルムを直接スキャニングした画像です。

1

2

3

4. シルクロード
明治から昭和初期にかけて絹織物を輸出するため、桐生(群馬)から横浜港までを最短で繋ぐ道がありました。
いわゆる「絹の道」ですね。ここは八王子の丘陵から神奈川に入る辺りの「絹の道」。
雑木林に人が通って道が出来、そこの雨が降って川になり、また人が通る・・・。
その繰り返しで、このように窪んでしまっています。今では通る人の姿も見あたりませんが。

5. 相模野基線北端点
どうという写真ではないのですが、わたしの家の近所にあるこの×印の付いた地点を「相模野基線北端点」
と言います。明治15年、当時の陸軍(現・国土地理院)が近代測量技術を導入し、正確な日本地図の製作に着手しました。
そこで、測量に都合の良い日本の中心(地理上の)として選んだのがこの相模原の一点(北端)と
座間の一地点(南端)だったのです。この2点を結ぶ線から三角測量を開始し、43年の長きを要して大正14年に
いわゆる現在でも使われている5万分の1の正確な日本地図が出来上がりました。
伊能忠敬ではありませんが、当時測量に携わった名も無き技術者の功績を讃えたいと思います。

6

7

8. 東大・法学部校舎
校舎の修繕に来ていた若い職人さんは休憩中。
エリートを目指す同じ年頃の学生が通り過ぎます。

9
これくらいの光になると、フラッシュを催促する赤いインジケーターランプが
点灯し始めますが、無視してください。その誘いに乗ると、絞り羽が開放になってしまいます。

トップに戻る    一覧へ戻る